昨日のBOPラボダイアログ(昨日は内輪でだべっていただけですが)で話した内容と、今読んているロバート・ライシュの「超資本主義」の「我々の中にある二面性」という章の内容が酷似していたので、感じたことを書き遺しておきます。

昨日話したのは「どうして人は社会貢献や社会的消費等をするのか」について。ここでの話は別に誰の何を批判するわけでもなく、あくまで興味の対象として考えたことだということを念頭に置いておいていただけると幸いです。

結論から言うと、社会的選択については「社会貢献の消費」から行われるものと、「市民としての義務」として行われるものがあるなあということです。例えば、何の帰結も配慮しないで「社会的によい」という名札を付けた商品を消費する行為は、単に「いいものを買っている」という満足感を消費しているだけではないか。(半年くらい前に、利他主義の心理学的分析なども結構読んだりしましたが面白かったです) 一方で、値段は少し高いけど、こっちの製品を買おう、この選択をしよう、それによってこうした結果につながる、そういう認識のもとに行われる選択は消費者としての義務と言えるのではないか。義務というと違和感のある人には主体性を伴う「コミットメント」というと分かってもらえるかもしれませんね。その行為を観察するだけでは、この二つのすみわけが分かるものでもなく、またその違いが自分の中に明示的にあるかというとまたそれも微妙ではあります。

ただ、このすみわけが大事だなと思うのは、ビジネスがこうした社会的選択を促進しようとすると、それは前者の「社会貢献の消費」、満足感を買うことによる付加価値の享受を促進していることでしかないような気がしているのです。そこから一歩を踏み出し、「市民としての義務感」を消費者に醸成する「マーケティング」を行えているかというと疑問が残るなあと。

「市民としての義務感」からの選択というのは、欧米ではNGOなどの市民社会がアクティビストとして問題(サプライチェーン上での児童労働、低賃金労働、森林破壊など)に光を当てたことによって、問題を認識した消費者が市民となって社会構造の変革に行動を起こす(選択をするようになる)、ということなのかなと。一方で、こうした問題意識の認識が充分にされないまま「何となく社会によいもの」の消費をマーケティングの視点から販促することとは根本的に違うのではないかと感じているわけです。

別にコーズマーケを批判するつもりもありません。ただ、誰が主体となって何を目的とするのか、それを再考してみる余地はあると思うのです。

そこで今回のタイトルにもなっている「私達の中にある二面性」です。ライシュは人々が市民として社会悪を批判する一方で、超資本主義を構成する決定的な主体となっていることの矛盾を「二面性」という言葉で表現しています。同一人物が、フェアトレードの製品を買おうと主張する一方で、低下のモノを買ったり、給料の底上げ等を主張することで、底辺への競走を助長している不思議。ウォルマートの進出が進出先の商店街をつぶしたって、それを支えているのは消費者である住人ではないか、という話。色々なものにコミュニティ意識、帰属意識を持ち、その一方で個人の便益を最大化しようとするホモエコノニクスでもある私達は、こうした矛盾を抱えながら生きている、それはこういうテーマを研究していると言われなくても常日頃感じることです。今回の消費についても、ある特定の商品に付加価値が付いたところで、もしかしたら問題となっている社会構造というものはもっと別の、もっと大きなところになるのかもしれないぞ、そういうことを考えていたわけです。

長くなってきたので、今回はこのあたりでまとめに入りたいと思います。

このあたりの話は、私のイメージ先行でしているものなので、何かを分析した上での考察ではありません。しかし、個人的に思う目指すべきものとしては、一つは「人々が社会の構造について、今より少し広い視野を持つようになること(自戒も込めて)」、二つ目は「その認識において、主体性を持って選択をすること」があるかなと思います。社会構造の認識から生まれる選択にはある種の義務感が帯びているような気がします。

と、ここまで書いてふと疑問に思ったのは自分の中に前提として「社会貢献を消費すること<市民としての義務」という構図があったのですが、必ずしも「消費<義務」ではないですね。もう少し「消費」と「義務」について深く考えてみようと思います。